アンタレス研究所・訪問

 

§20 悪い権力者の前に、超人的な力を持った正義の味方が現れて善人を救うという勧善懲悪のパターンは元禄期の初代市川團十郎の「荒事」に見られるもので、その「暫(しばらく)」は「歌舞伎十八番」のひとつである。勇者、鎌倉権五郎影政は市川家の紋所をつけた大きな柿色の素袍を着け、大振りな刀を差し、「しばらーく」と声を掛けて登場する。その顔は真っ赤な隈取である。元禄歌舞伎の「荒事」はその表現を大仰に誇張するのが特長である。隈取もそのひとつで、人の内心の憤怒によってできる筋肉の隆起を大袈裟に表象し、蔭をつけて誇張したものである。明治初期の凡庸な役者が、ややもすると隈を「描こう」とする傾向にあったものを、九代目團十郎は「隈は描いちゃあいけない。取るものだ」と教えたという。

東洋画の手法に「くまどり」というのがあり、遠近や高低をあらわして立体感を出すために、墨や色の濃淡で境界をぼかして描く手法を指す。「隈」は基本的に蔭なのだから、線を描いたり塗りつぶしてはならない。歌舞伎の「隈」も「片ぼかし」といって、線の片側を指先を使ってぺたぺたと叩くようにして境界を曖昧にぼかすのである。この手法は二世團十郎が庭に咲く大輪の牡丹を見てヒントを得たといわれている(服部幸雄『歌舞伎ことば帖」』岩波新書)

「歌舞伎十八番」の「勧進帳」の義経の紫と薄緑、弁慶の黒、富樫の浅葱色に見られるように衣装の色彩は役柄の性格を表わす役目をするが、隈取の色も衣装や肌の色と共に、その役柄の特徴を担う。赤い隈(紅隈)は超人的な勇気・正義・魔を除く呪術的な力を現し、青い隈(藍隈)は巨大な悪をあらわす。妖怪変化の気味悪さを表す茶色い隈(黛赭隈)というのもある。「暫」の鎌倉権五郎影政は正義の隈取、清原武衡(たけひら)は、権力悪の典型である公家悪の隈取である。歌舞伎の隈取は中国古典劇の「瞼譜(れんぷ)」にそのルーツがあるという考えがある。確かに似ているが、京劇の瞼譜は顔の全面を殆ど素の表情がわからないように塗りつぶす。幾つもの色を使って塗り分ける。ぼかすことはしない。性格的には仮面に近い。仮面は表象としては動かないが、舞台では役者がよく躍動する。一方、歌舞伎の隈取は、顔面表情の動きすら様式的に誇張され動きに参加する。素の表情の動き、その隆起する筋肉の動き、その蔭を敢えて流動的に強調するということである。

舞台の動きの頂点は「見得」である。「見得」は動くものを一瞬止め、じっくり見せるという手法である。進退極まった生と死の背中合わせの状態の中で最大の力を発揮する表現とされる(山川静夫)。「傾く(かぶく)」「歌舞伎」は、衣装や隈取りの微妙な動きに支えられて絶えず変化しつづけながら進行するのだが、それらは一瞬のクライマックスを招来するために存在するという逆説的なところがあるように見える。歌舞伎は來年四百周年を迎えるという。

      挿画は 菅原伝授手習鑑 車引 梅王丸 (團十郎)の隈取りから

(Ts)

 

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アンタレス研究所訪問§§58

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